犬丸治さんのご好意で、Facebook に書いていらっしゃる内容を助六くんブログに掲載させていただけることになりました。4月の新橋演舞場でも上演されていた忠臣蔵について抜粋いたします。お楽しみに!

 

<<犬丸治さんFacebook 2012.04.25 より>>
おはようございます。

「忠臣蔵・六段目」で、義士の原郷右衛門と千崎弥五郎が勘平のもとを訪れ、「不義不忠の士からは受け取れぬ」と最前の五十両をつき返します。
そこで、おかやが「親父どのを殺してとった金…」というので、勘平は完全に進退窮まります。亡君尊霊の恥辱、汚らわしいと席を蹴る二人を、必死に引き止める勘平。
「暗夜にまぎれて、イノシシと間違え人を撃ち、懐の金を奪った」と、一応の申し開きのあと「様子を聞けば情けなや、金は女房を売った金、撃ちとめたるは、舅どの」といって勘平は腹を切ります。

「いかなればこそ勘平は、三左衛門の嫡子と生まれ、十五の年より御近習勤め、百五十石頂戴なし…」という述懐は、竹笛入りの哀切な合方にのせて、「色にふけったばかりに」と手で頬を打つとベッタリと血糊がつくくだりを頂点に、聴かせどころです。

ところが、このセリフは原作にはない。歌舞伎のオリジナルな「入れ事」なのです。
人形浄瑠璃では、切腹してから「夜前弥五郎どのに出会い…」と申し開きのセリフを言うので、千崎が与市兵衛の死骸を改め、鉄砲疵には似ているが、まさしく刀でえぐった疵(つまり犯人は定九郎)と真相がわかります。
今月の亀治郎の「鴈治郎型」は、勘平が「撃ちとめたるは…」と言って言葉につまると、二人侍が「舅であろうが!」と決め付けます。
で、千崎が与市兵衛の死骸を改め「まさしく刀でえぐりし疵」と不破(原にあたる役)を呼んで、真相が判明するのとほぼ同時に、居場所を失った勘平は、これまでと下手隅で後ろ向きに腹を切るのです。
そして、疵のことを知らされると、支えられて刀をつきたてたまま上手一間まで行き、柱にしがみついて見て「おお」と事の次第に驚き、「お疑いは晴れましたか」となります。もちろん「いかなればこそ」も「色にふけった」もありません(ほかの上方型で言う場合があります)。

「いかなればこそ」が二枚目勘平の悲劇を強調するための工夫とすれば、「鴈治郎型」はやることなすこと全てがちぐはぐで「いすかの嘴(はし)」と食い違う(いすかはスズメ科の鳥で、くちばしが食い違う)勘平の、運命から逃れられない重苦しいドラマなのです。

<<犬丸治さんFacebook 2012.04.26 より>>
おはようございます。
先ほど投稿したのですが、あらためて。
写真は、お馴染み「木挽堂」小林順一さんのFBから。
昭和四年二月歌舞伎座。六代目尾上菊五郎の勘平・弟の六代目坂東彦三郎の不破、十五代目市村羽左衛門の千崎です。

みなさんは、「忠臣蔵・六段目」に「金」という字がいくつ出てくるかご存知ですか?
… 答えは「四十七」。まさに金がカタキの世の中です。

「忠臣蔵・六段目」で、六代目尾上菊五郎の演じた勘平が余りに迫真の演技なので、若き日の八代目坂東三津五郎が、父親(七代目)に「新劇みたいですね!」と興奮していったら、七代目は平然と、「馬鹿野郎、あれが歌舞伎だよ」。

天性の二枚目十五代目市村羽左衛門の勘平に、尾上多賀之丞が初役でおかやをやることになり、教えを乞いに言ったら「いいよ、適当にやっとくれ、どうせ客はオレしか観ちゃあいないんだから」

いずれも、音羽屋型の両面、恐ろしくリアルで、かつ様式的に美しい、ということを言い当てています。
六代目菊五郎のリアルさは、おそらく当時ひたひたと押し寄せていた新劇リアリズムへの、歌舞伎役者としての回答だったのでしょう。
六代目の著書「芸」には、五代目以来の型・口伝が詳細に記されています。
二枚目がこの通り演じれば、確かに「オレしか観ちゃあいない」、水もしたたる勘平が出来上がるはずです。

しかし六代目はさらに、勘平を近代的に掘り下げました。
たとえば、二人侍を迎えるとき、勘平は「これはこれは、見苦しきあばら家にようこそご入来」といいます。考えてみれば、ここは勘平の家ではなく、与市兵衛の家です。つまり、勘平らは殺人者の罪悪感から既に錯乱しているのですね。
六代目の写真を観ると、どの場面でも実に暗い影が差しています。
このあと二人侍が「見れば内に取り込みのある様子」というので「アイヤ、ずんと些細な内証事」とつくろうのですが、このセリフは六代目のさらに曽祖父、三代目菊五郎のセリフ廻しが今も生かされているのです。
文化文政の名優の工夫を、昭和・戦前に花開かせたのが六代目菊五郎の近代性でした。

 

<<犬丸治さんFacebook 2012.04.27 より>>

おはようございます。

「忠臣蔵・七段目」になると、場面は一転、華やかな祇園の廓・一力に移ります。暗から明への転換が見事ですね。すぐ傍が、先日交通事故の凄惨な現場になったのは、残念なことです。

この七段目の誕生のいきさつは面白くて、「忠臣蔵」が初演される前年の延享四年(1747)、京の歌舞伎で「大矢数四十七本」という義士ものがかかったのです。
ここでの、初代澤村宗十郎の演じた大岸宮内(大石のこと)の祇園での酔態が大当たりしたので、それをそのまま浄瑠璃に移したのですね。ですか…ら、この部分に限れば、浄瑠璃が歌舞伎に学んだ。それだけ、宗十郎の演技が素晴らしかったのでしょう。

明治の名優九代目團十郎は、「四段目の城明け渡しなら、音羽屋の兄貴(五代目坂東彦三郎)に勝る自信はあるが、七段目は難しい」と言っています。
廓遊びに本心を隠しているとはいえ、遊里で遊びなれた大尽の色気がなければいけない。
九太夫に蛸肴を差し出されてもじっと辛抱して、最後の最後で由良之助らしさをキッパリと出さねばならない。
その兼ね合いが難しいのです。
紫の着附・羽織で出た風情で勝負あったというべき役で、その点、十三代目片岡仁左衛門が実に見事でした。
血気にはやる三人侍に、仇討するなど「人参のんで首くくるようなもの」とか「青海苔貰うた返礼に、太々神楽を打つようなもの」とはぐらかすセリフも、機知に富んでいて、浄瑠璃作者のセンスの良さがわかります。
それから、密使の大星力弥が山科に帰るとき呼び止めて、「祇園町を離れてから急げ」というセリフは歌舞伎のオリジナルですが、これは巧いと思います。

今月は染五郎が、初役で大星を演じていました。
染五郎といえば、昭和五十六年(1981)十月、祖父八代目幸四郎が白鸚、父が幸四郎、彼が金太郎から染五郎を襲名して、「七段目」であどけない力弥を演じたのが昨日のようです。祖父白鸚の大星、松緑の平右衛門、歌右衛門のお軽でした。
思えば、高麗屋三代の大星を観て来たわけで、思わず感慨に浸ってしまいました。

 

<<犬丸治さんFacebook 2012.04.28 より>>

おはようございます。

新歌舞伎の名作に、真山青果作「元禄忠臣蔵」の連作があり、中でも「御浜御殿綱豊卿」は傑出しています。
将軍・綱吉の甥・綱豊(のちの六代将軍家宣。写真は三代目市川寿海)は、英明の誉れ高いが、疑り深い叔父の目を避けて、御浜御殿(いまの浜離宮)で側室お喜世(家継生母)を愛でながら、遊興に身をやつしている。と、そこにお喜世の義理の兄で赤穂浪人・富森助右衛門が、御浜遊びを隙見したいとやってくる。
かねてから赤穂に心を寄せていた綱豊は、今夜の能に吉良も呼ばれ一番舞う…ことから、助右衛門の意図を怪しみ、本心を聞き出そうとするが…。

諧謔をまじえながら、鋭く大星の本心を助右衛門から探ろうとする綱豊、綱豊の誠意が身にしみつつも、「本心を明かせとそこまでおっしゃるならば、あなたのご遊興は何なのか」とグサリと核心を突く助右衛門の論戦は、手に汗握るもので、前進座の長十郎・翫右衛門が語り草になっています。

今、なぜこの話をするかと言えば、これは「七段目」の周到なパロディだからです。
「七段目」の大星と同様、綱豊も遊興で本心を隠している。
お喜世と助右衛門「兄妹」はお軽と平右衛門。
最後、単身吉良を討とうとする助右衛門を組み敷いて意見するのは、最後の大星と九太夫。綱豊が平右衛門を「阿呆払い」にするのは「七段目」の「水雑炊を食らわせい」です。
つまり、青果は「七段目」というフィルターを通じて、綱豊と、伏見撞木町で遊興する大石の孤独を重ね合わせたわけです。
歌舞伎の新作というのは、ただ書けばよいというのではなく、こうした先行作の抽斗をたくみにアレンジして、観客の「記憶」を刺激しなければ、面白くありません。
その点、青果は実に非凡な作者でした。

 

カテゴリー:歌舞伎随筆