渡辺保「歌舞伎劇評」
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やっぱり「鏡獅子」
2009年1月歌舞伎座
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新春の歌舞伎座は、建替えのための一年四ヶ月に及ぶ「さよなら公演」の第一ヶ月目とあって、通俗的な演目、配役がならんでいる。よくいえば極め付き揃い、わるくいえばまたかのものばかり。いくら「さよなら公演」でも少しは清新な企画がほしい。
昼夜七本ズラリとならんだ演目のなかでは、勘三郎の「鏡獅子」がやはり一番見ごたえがあった。もっともこれが悪かったらば困るが、今度はことさらに磨きぬかれて過剰なところがなく、玲瓏玉の如き完璧さである。たとえば冒頭顔を見せる一瞬も引込み際に三階のあたりを見る曲をやめて、舞台中央で老女をつき放した瞬間の、そのはずみで思わず正面を見てハッとなってすぐ顔をかくすという自然かつ印象的な動きになっている。
一事が万事。芸に完璧ということはないだろうが、私があえて完璧というのはそこに余裕があって、細かく細部に神経が行き届いてスキがないからである。
そのよさは「されば結ぶの」と袂をとった姿に十分に見て取れる。勘太郎かと思うほどの若さの上に、露のたれるようないい姿。前半弥生の間がアッと思うほどに終ったのはそのためである。
ことにいいのは、「初の人にも馴染むはお茶よ」。三度にわかれる女のはずかしさがあって、女の姿が立体的に的確にたっぷりとうかぶ。
難をいえば、これだけの出来なのにどういうわけか見ていて踊りそのものにワクワクするような躍動感がうすい。起承転結、メリハリがあればなおいい。
それには長唄がのびすぎているからではないだろうか。
もう一つは石橋の件りで世界がうかんでこないこと。
後ジテは気力十分、体力ではなく芸で見せる、そのイキが溌剌としている。
幕開きに吉之丞の老女とならんで病気全快の歌江が並ぶのはさすが大舞台。
夜の部はこの「鏡獅子」の前に一座総出の「対面」と、後に勘三郎玉三郎の「鰯売恋曳網」。
「対面」は、吉右衛門の五郎が私の見た日調子をやっていていかにも苦しそうで気の毒。もともと実事のうまい吉右衛門に六十歳すぎての荒事というのは無理。工藤が見たいところであった。
幸四郎の工藤は、調子のいい人だけにもっと聞かせるだろうと思ったが、意外に地味で世帯じみている。寛かつさ鷹揚さが足りない。この人のニンからいえば十一代目団十郎のような敵役風の色合いの濃いやり方の方があっている。
菊五郎の十郎が本役。なんでもないようにしていて味がある。
他では断然魁春の舞鶴が傑作。花道へ出た兄弟を呼ぶ形など、木目込み人形を見るような美しさで、歌右衛門の舞鶴を思いおこさせる出来である。
芝雀の虎が立派な立女形ぶり。鬼王は梅玉。
染五郎が近江、松緑が八幡、菊之助が少将。染五郎と松緑は役が逆だろう。
錦吾、亀蔵の梶原父子まで、さすがに幕切れのお約束の形にきまった各優の顔を見ると豪奢な「対面」である。
「鰯売」は、猿源氏の勘三郎があまり脱線せずに芝居を締めている。魚鳥平家の物語から蛍火に寝言を問い詰められるところが、イキがつんでいい。このリアリティのためにこの一幕が笑劇にならずに立派な喜劇になった。
玉三郎の蛍火も品が出て大きく、竹本にのっての物語が独特のうまさである。
弥十郎の海老名が味があってよく、染五郎の馬方が真面目にやっておかしい。
東蔵の女郎屋の主人、亀蔵の庭男と揃ってよく、とかく脱線しがちな最近の、「鰯売」のなかで均整のとれたいい舞台である。
さて、昼の部は「三番叟」「俊寛」「十六夜清心」「鷺娘」の四本立。
最初の「三番叟」は題名に「式三番」とあるが「舌出し三番」があるかと思えば、三番と千歳二人の三人の手踊りもあるという新版。ご祝儀曲で観客を退屈させないように作ってある。
富十郎の翁は、冒頭の「とうとうたらりら」から長唄の鳥羽屋里長との掛け合いが、音吐朗々。まことに正月らしいすがすがしさである。面はつけないが、
いつもの左手の片袖をかついで下手客席をスーッと見た時に、空間にパッと紅彩が立ちのぼる。
三番は梅玉。千歳が二人で松緑菊之助。後見が錦之助松江。最初に後見二人が出て一礼するのは後見だけに違和感がある。
「俊寛」は幸四郎。この人の義太夫物のうちではわるくないが、それでも義太夫の味には乏しく、どうしても近代的人間ドラマの色彩が濃くなる。イトにつくところが空々しく見えるのは、動きが定間なのと持ち味に竹本がしみていないからである。いっそ六代目菊五郎が「吃又」でやったように人間ドラマを徹底的に追求した方がいいかも知れない。
梅玉の丹左衛門が本役。彦三郎の瀬尾はせりふがしっかりしているが、そのせりふをふくめて憎らしさが足りない。染五郎の成経は舟に乗らないというところで、かつて梅玉の成経がこの件りでこの一幕は成経の悲劇かと思わせたほどではないが、それに次ぐ出来。歌六の康頼がしっかりしている。
この幕一番の出来は、芝雀の千鳥。
いつもはとかく長いと思うくどきが、今度はまことに面白く、劇的である。
これは一つにはくどきが前後二段にわかれているのがハッキリして千鳥の心持ちがよくわかるからであり、もう一つは最初の海女の身でもという立身のところで思わず自分の裸身を恥じるような、こぼれる色気があるからである。
今月、夜の大磯の虎といい、これといい、芝雀大当り。
次が「十六夜清心」。菊五郎の清心は、さすがにかつての玉のような美しさはないが、そのかわりこの弱気な男が、少しづつ悪にかわっていくところを自然に見せてユーモラスな点がいい。仁左衛門のようにガラリとかわるのも面白いが、菊五郎のようにいつの間にかというのも面白い。
時蔵の十六夜は、十九歳で女郎のくせに妊娠するという女のおぼこぶりがよく出ている。
吉右衛門の白蓮、歌昇の船頭三次のやり取りに生活感があって面白く、二場目の白魚舟の場が短いが見応えがある。
求女は梅枝で、この大舞台で初々しく、キチンとしているのがえらい。
最後は玉三郎の「鷺娘」。
今回ははじめから薄明かりで舞台全体がうかんでいて、舞台上手にせり上がる。白の衣装の間は一つ一つのきまった形は実にきれいだが、そこへいく動きに味がない。
この人の本領は引き抜いてのくどきのはなやかさ、あでやかさ。「忍ぶその夜の咄を捨てて」の袖を抱くあたりの叙情味の深さが第一である。
後半の責めは例によってなかなか死なない。「瀕死の鷺」。柳の枝も持たずに袖一つの狂いはえらいものだが、私がこの演出に賛成できないのは、狂い廻って倒れたりしているうちに、自然と女形の体の線がくずれてくるからである。
倒れるなら倒れてアッサリ終わった方が余韻も残るし、女形の姿のよさも出るのに惜しいことである。
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