渡辺保「歌舞伎劇評」
仁左衛門と勘三郎と
2008年10月平成中村座Bプロ
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 平成中村座の「忠臣蔵」四つのプログラムのうち、二日目のBプロを見た。
 勘三郎の勘平で五、六段目、仁左衛門の由良助で七段目、大詰が討入りである。
 討入りは別にして前の二幕を見て、つくづく楷書できちんとやりさえすれば歌舞伎は実に奥の深い世界をもっていることを思った。ことに最近とかく本格的な芝居が少なく観客への媚態が目立つ勘三郎が久しぶりに勘平でいい舞台を見せる。ニンではあり、本役ではあり、父直伝の勘平の上に、新しい工夫を加えたいい出来栄えである。再生第一歩。新しい試みも、外国公演も結構、しかし肝腎の古典がよくなければ芸の味を失い、歌舞伎役者としての根拠を失う。
 五段目鉄砲渡しは笠をあげたところ左足の伸び具合、お父さんをよくとっている。つづいて「向うから来る小提灯」の思い入れ、千崎とのやり取り、花道の引込みのしっとりしたふくらみまで。気の入ったいい勘平。
 二ツ玉になる。バタバタで花道を出て足を割ったきまりもグッと抑えていいが、本舞台へかかって掛け稲をふってきまりはソクとも足を割ったともつかぬ中途半端でオヤオヤと思う。形のいいこの人にしては恰好が悪い。山刀、細引とつづく二度のきまりはその恰好の悪さをとりかえしているが、菊五郎型はこの五代目菊五郎のガラス細工のような精巧さが身上。恰好が悪くては話にならない。
 勘三郎がステキなうまさを見せるのは、金包みと知って慌てて花道へ行き、この金を千崎にというところである。この時の右手は向う揚幕をさすのだが、「半握り」というむずかしいところ。その向うを指す手の具合、指すともない手から心持ちかこぼれてポンと膝を打つ、その呼吸、その色気がなんともうまい。ここは先代以上。
 つづいて「飛ぶが如くに」の花道の引込み。空足をふんで体がくずれていく具合、六代目が殺人の恐怖をまざまざと見せた、その心持ちが生きている。ただ一つ五段目でいけないのは財布を持って行こうとすると取れない。そこで喜劇的に足を滑らすこと。この当ッ気が芝居をこわす。

 六段目は「その様子聞こうかえ」がまずうまい。勘平が引締っているだけでなく舞台を引き締めている。財布を見るところは一度ジックリ財布を見てしまう。そうしておいて煙草をつめてカチカチ音をさせる。あれだけ見たらもうわかるだろうとか、カチカチすれば回りが気がつくだろうとか、やかましい理屈が出そうなところであり、在来の菊五郎型からいえばニュアンスが違うのも事実であるが、私はここらの芝居運びの新工夫はそれなりに面白かった。私がそう思ったのは、なによりも芝居が盛り上がるからである。
 ここから「身のあやまりに」の財布を袂に入れたきまりまでは大いにいい。しかしそこから後がいささか怪しくなる。
 すなわち二人侍が出てからは車輪すぎ、せりふ、芝居ともに上滑り、前半の心持ちでつないで来た折角の芝居運びの「心」が吹き飛ぶ。もっと締めてかかるべきだろう。この人だったらば十分観客を泣かせられるだろうから。まだ二日目、もう何日かすれば劇場の寸法が体に入るに違いない。
 橋之助の定九郎は最近は珍しくなった朱鞘の大小で舞台が大きく、勘太郎の千崎が引締ったいい出来。勘三郎を相手に一歩も引かぬイキである。
 孝太郎のおかるはもっとしっとりしたところがほしく、亀蔵の源六は安定している。小三郎のおかやはこれからだろう。歌女之丞のお才は仲居然としている。勘之丞の与市兵衛。
 この中に入ると弥十郎の不破が立派に見えるが、門口の「見れば家内に」で帰ろうとするのは性根違い。もっとも花道の出に千崎を先に立てたのは今日間違いだらけの舞台で珍しく正しい。
 さて七段目。
 久しぶりの仁左衛門の由良助は、今日吉右衛門と双璧の立派な由良助である。
 まず前半のせりふが一つ一つ生きていて、作者が苦心して書いた言葉の面白さがよくわかる。口跡のよさでもあるが、語る芸の面白さ、義太夫がハラにはいっているからこその明晰さで実に面白かった。ことに敵の首を「とってもとっても」と白扇ですくうあたりは堪能させる。
 力弥が出て花道では鋭い性根を見せ、九太夫との出会いではがらりとかわって遊びの面白さを見せる。父十三代目には世を捨てた人の風雅さがあったが、現仁左衛門には現役の人間がそのまま遊んでいる生々しい面白さがある。
 二度目の出。伴内が抜きかけたままの刀をとって、「九太はもう」シャンと刀をおさめて「いなれたそうな」も性根が出て面白くかつコクがある。
 釣燈籠は手紙の切れているのに気づいて、頭のいたずら紙をまるめて白扇にのせて縁の下に落す。九太夫がとるのを見て座って「ようまあ」でその白紙を下において「吹かれていやったのう」。ここが他の人と型も違えば風雅な風情も違う。
 おかるとのやりとりも「洞庭の秋の月」辺り言葉が生きているのはむろん、「残らず読んだか」でなんの思い入れもせず、底も割らないのに、ああ由良助はおかるを殺す気だなとはっきりわからせるのは偉いものである。そこがわかるから「あの嬉しそうな」に哀れが漂う。
 三度目の出。
 「獅子身中の虫とは」の長ぜりふが一々胸にこたえるのは、前半と同じ。せりふのうまい下手をこえて、由良助の男の真情が胸をうつ。
 以上を要約すれば、仁左衛門の由良助は第一に言葉が生きていること。あらためて「忠臣蔵」は名作だと思わせる。第二に、遊びの生活感があること。第三にその心持ちがハラからしみ出て観客に説明せずにわかること。そして第四に由良助の男の覚悟、誠実な生き方がうかぶことである。
 最初に楷書にやればと私が言ったのはここである。しかし楷書に書くのは芸が必要なこと、いうまでもない。
 この由良助に対して橋之助の平右衛門がいい出来である。この人は時代物役者としてニンも立派だが、奴の、明るく、野放図な、あえていえば下品な面白さをうまく出している。明るさと誠実、野放図が一つになっているのがいい。
 橋之助最近はヒット。
 孝太郎のおかるは、若々しく娘娘しているのと、声の緩急に問題があるが二人の間へはさまって立派にこの役をつとめている。
 山左衛門の九太夫、松之助の伴内。新悟の力弥。
 この二幕のあとに討入り。
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