渡辺保「歌舞伎劇評」
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面白い「加賀見山」
2008年9月新橋演舞場
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時蔵の尾上がいい。初役以来十五年ぶりだそうであるが、初役の時も清新かつ内にこもる尾上の芝居が力一杯であった。それが十五年の歳月を経て実に成熟した芸になっている。
序幕、竹刀打ちの花道の出からして、その格がいい尾上だと思わせるが、試合に気を配る具合、この場の引込みの堂々たる大きさ。二幕目草履打ちの花道への引込み、ふところから草履を取り出して怒りにもえるあたりの盛り上がり方が芝居を面白くしている。ただ岩藤に怒るだけでなく、それが彼女を死にまで追い込むはげしさが面白い。
ことにいいのは、三幕目の長局である。花道へ出たところ。心配するお初に表面をつくろって「案じるは無理ならねど、サ、参りましょう」と、舞台へかかり、振り返って本心をチラッと見せる芝居がよくもあり、面白くもある。
部屋に入ってからのすぐれているところ三点。
第一、机の上の文箱に無意識に触りながら、屏風の陰できがえながら捨てゼリフでお初に文箱のありかを聞いて、そうであったかという。その心も空な尾上の気持ちがよく出ている。
第二、お初の「忠臣蔵」の話を聞きながらふたたびこみ上げてくる岩藤への怒りにもかかわらず、それをジッと抑えて無表情にしているハラの芝居。お初の芝居から自分への意見であることを知るところ。静かにうけている時蔵の顔に万感迫るもの、それをこえて死ぬ女の覚悟がよくうかんでいて、この芸の厚味、内容の味の濃さに感心した。
第三、お初が使いに出るところで決してヒステリックにならぬこと。歌右衛門でさえともすればヒステリックに見えたところだが、時蔵は少しも怒っていない。ここがうまい。どうでもお初を使いに出すように仕向けていく、そのスタティックな横顔にこの女のドラマが浮かび上がっている。
以上三点。対する亀治郎のお初が尾上と対照的な小娘になって、しかも尾上を引き立てる芝居をしていていい。たとえば肩をもみながら顔をより添うように覗くあたり、静的な尾上の表情、動的なお初と、この二人で実に舞台に濃密な空間をつくった。いつもはとかくだれるこの一場が今月第一の面白さ、見ごたえがあって、少しも長さを感じさせなかったのは大手柄。
二人に対する海老蔵初役の岩藤は、出て来たところ誠にキレイ。女らしい岩藤で驚く。しかし時々急に男の声になったり、とかくせりふ尻がしまらず、フワフワする。声が不安定で八方破れの岩藤だが、怒りに燃えた瞬間の凄まじさ、芝居のうまさには一瞬息をのむ。
たとえば序幕の引込み、立って思わず尾上の方へ手が出、その手は鬼女のようでよくないが、次の瞬間、お初に打たれた手が痛む。それを隠してフンと笑って入る芝居は、天性の芝居のうまさである。
あるいは奥庭で「こりゃ草履じゃないか」で見得になるところのカッと目をむいた時の迫力はさながら生きた錦絵のように美しいオーラがあって悪の花が咲く。この一瞬が歌舞伎のダイゴ味であることは間違いない。あの八方破れがなんとかなればいい岩藤なのに惜しい。
団蔵の剣沢弾正が舞台を締める。松也の求女、梅枝の大姫。巳之助の伊達平、万太郎の主税。
夜の部は、このあと海老蔵三度目の与右衛門、亀治郎のかさねで清元の「かさね」。
二人が花道を出たところ、亀治郎のかさねが目尻につよく紅をさした化粧といい、踊りといい、前回と違って今から化けそうな女になっていう上、海老蔵の与右衛門もこの女から逃げようとしているのか愛しているのかよくわからぬ迷惑顔で少しも二人が噛み合っていない。ようやく後半になって、海老蔵は顔の変わったかさねを殺そうと決心する辺りから本道に出る。亀治郎も後半の二度目のくどきでもり返す。
それにしても海老蔵は不思議な才能である。
醜くなったかさねをあわれでいるような横顔、かさねに鏡を見せるあたりに、この男の無関心さ、虚無的な気配がまるで新しい作品の登場人物のように出るかと思えば、一方幕切れのくどいほどの連理引のあと、カラ足をふんでおこつくとたんにパッと電気がつく瞬間、上手向きに正面をきった顔が、立派さ、大きさ、したたる色気で錦絵になる。前者と後者とは全く感覚が違う。前者は歌舞伎を逸脱しているし、後者はこれぞ歌舞伎という具合。不思議という他ない。
昼の部は「源平布引滝」の通しである。
義賢最期、幕前で矢走の浦を見せて御座船(竹生島遊覧というのは文楽の段名だろう)、そして実盛物語と全三幕。物語がよくわかるのがいい。
海老蔵が義賢と実盛二役。ほとんど出ず張りの大奮闘である。
義賢のドラマは、この武将のどうしても兄義朝のどくろを足蹴に出来ないところと、敵軍を迎え討つのに鎧一つつけずに素襖大紋を着て戦死する潔癖さにある。これでは戦国に生きることはできない。そういう特異な武将のドラマが出ないとこの幕は面白くない。初役なり初日なりやむを得ないだろう。
しかし一方、この役の古怪さは海老蔵の芸質に合っているので、後半は盛り返す。杉戸一枚に乗った大見得、花道へ行っての見得、幕切れの三段の上から落ちるまで。将来この役がこの人のものになるだろうことを思わせる。
門之助の小万がなかではさすがに出色。権十郎の蔵人はもう一つキッパリ行きたい。新蔵の九郎助がいささかものわかりがよくて、義太夫狂言の頑固親父らしからぬところもあるが、この場からまずはいい出来。松也の葵御前、梅枝の待宵姫は、二人とも男々している。男女蔵の進野次郎。
つづく御座船は、義太夫一切ぬきで歴史劇の如く、ただ筋を通したのと、海老蔵の実盛が後の物語とはサマをかえて烏帽子大紋姿をみせたというにとどまる。台本も演出ももう一度洗い直す必要がある。第一小万と実盛が目くばせするイミが私にはよくわからなかった。
友右衛門の宗盛、新十郎が飛騨左衛門。
三幕目が実盛物語。
海老蔵の実盛は五年前の歌舞伎在来の当り芸。すでにその時詳しくそのよさにふれたから(「批評という鏡」)あえて細部にふれない。五年前にくらべて格段によくなったのは後半、太郎吉を愛する心持ちに余裕が出来てほのぼのとした気分が横溢したこと。悪くなったのは腕を見込んでの見得にアッと向うを見て驚くのがオーバーになったこと、瀬尾の告白を聞いても驚かぬこと、ハラで受けるべきである。
前回もふれた通りせりふがまずい。時に現代語調になったり、語尾がのびすぎてイキが抜けたり、折角いい口跡の人なのにせりふ廻しが下手すぎる。もっと義太夫狂言の音遣いを研究すべきだ。白紙に返って勉強してほしい。
この役で襲名した市蔵の瀬尾が、前半の手強さに、今度は後半の情が豊に出て大当たりである。
松也の葵御前は序幕よりもよく、新蔵の九郎助は、右之助の女房を得て安定した。
門之助の小万が、筋が通って見栄えがしている。
このあとに時蔵の「枕獅子」。「鏡獅子」の原曲でありながら、二番煎じのように見えるのは、あまりに「鏡獅子」がポピュラーになったためか。一度新しい振付で見たい。
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